少し前に本棚を片付けていたとき、
10数年前に購入した本を見つけました。
その本は、
「アサーショントレーニング~さわやかな〈自己表現〉のために~」
(平木典子著、日本・精神技術研究所)。
10数年前に私が仕事関係で人間関係に悩んでいたとき、
教えていただいた本です。
久しぶりにページをめくってみました。
ちょうどオリンピックを開催するのかどうかという話題が
盛り上がっていた時でした。
ふとこんなことを考えました。
日本って、
ごく近しい人の関係をのぞけば、
本当の意味で話し合うということがほとんどないような気がするなあ。
「話し合い」といっても、
現実には自分の言うことを押し通すか、
相手の言うことをきくか。
もしくは話し合うというよりも、
忖度したり、空気を読んだりして、
沈黙しながらやりすごし、
できるかぎり葛藤がないようにする。
正直、私は「話し合い」にはそんなイメージを持っています。
互いに本当の気持ちや考えを伝え合うことがないために、
一見波風なく平和に見えたとしても、
たがいが納得できる状態がつくりだされることはない。
このコミュニケーションの在り方は、
個人対個人の小規模な関係だけでなく、
社会組織、国際関係といった規模の大きな関係においても、
かなりの影響を及ぼしているのかもしれない。
思えば小さな変化も起こせないところに、
大きな変化が起きることはない。
そんなことを考えていました。
実のところ、ここ10年近く、
自分の気持ちを大切にして伝えることや、
「話し合い」の大切さについて考えるところがありました。
久しぶりにこの本を読んでみようと思いました。
読み始めてみると、
この本が書いていることの重要性を
以前は気づけていなかったように思えてきました。
とても大切なことが書いてあるように思えて、
さらに図書館でもアサーション関連の本を借り、
ブログに記事を書いてみることにしました。
前置きも長いながら、
記事もまた長めになってしまいました。
でも、大村はまさんの本も、アサーションの本も、
とても良い本なので、
かいつまんででもお読みいただけたら嬉しいです。
はじめに
アサーションとは
3つの自己表現
アサーションとは、
「自分も相手〔他者)も大切にする自己表現」であり、
お互いが理解を深め、関係を深めていこうとするためのもの。
何冊かの本を読んで、
私は、アサーションとは、
「自分の人生を主体的に生きるためのコミュニケーションの方法の1つ」
だと思いました。
アサーションの本には、
自己表現の種類は大きく3つあると書かれています。
①攻撃的(アグレッシブ)な自己表現:
自分は大切にするが、相手を大切にしない自己表現。
自己主張はするが、相手の意見や気持ちは無視したり軽視したりする。
暴力的にいうことを聞かせるだけでなく、
巧妙に自分の欲求を相手に押しつけたり、
相手を操作したりすることも含む。
②非主張的(ノン・アサーティブ)な自己表現:
相手は大切にするが、自分を大切にしない自己表現。
表現しないことと、し損なうことの両方を含む。
③アサーティブな自己表現:
自分も相手も大切にした自己表現。
ここで注意したいのは、
「アサーティブになったからといって、
自分の欲求が通るわけではない」こと。
複数の本の中で繰り返し注意喚起されています。
アサーションは、それをすれば何の葛藤もなくスムーズに事を進ませる道具ではない、
むしろ相手との間の葛藤を覚悟し、それを引き受け、解決策をさぐる表現だといいます。
マジックはない、ということなのでしょう。
また、「自分の言いたいことを正々堂々と言う」
だけではなく、
「相手を傷つけないように自己主張する」
ことでもないことに注意が必要といいます。
自分と相手は違う人間なのだから、
自分の気持ちと相手の気持ちが同じではないことがある。
自分を大切にすれば、
相手の気持ちを損なうこともある。
相手を決して傷つけないようにするのは不可能です。
相手を傷つけたくないとして、何も言わない、
相手の言う通りにすることも、もちろん選択肢の一つです。
でもそれでは自分を大切にすることはできません。
そして相手の言う通りにすることで、
心の中にわだかまりを抱き続けるのであれば、
相手を大切にすることにもなりません。
そもそも自分と相手は違うのだから、
波風立つのは当たり前。
それを前提として、
どうやったら歩み寄れるのか、
気持ちを伝え合いながら工夫していく過程がアサーションです。
【参照】
●「アサーション入門」、平木典子著、講談社現代新書2012 (16ページ)
● 「ナースのためのアサーション」、編者:平木典子・沢崎達夫・野末聖香・保坂健治、金子書房、第8刷2008」 (4~5ページ)
時と場合でアサーションをしないことも自分を大切にする選択の1つ
アサーションは、
自分も相手も大切にし、
真摯に相手に関わり合うコミュニケーション。
そのコミュニケーションには、
時間と精神的なエネルギーが少なからず必要になります。
アサーション・トレーニングでは、
自分と相手との関係性や、
相手の特徴をふまえて、
アサーションするかどうかを選択することが大切だとしています。
「相手」への配慮~今の風潮から
昔と比べて今は、
自分のことだけを考える人が増えている
というような話が出ていました。
昔は、
女性が言いたいことが言えず
男性が支配的というパターンが多かったそうです。
今は、お互いに言いたいことは言っても、
それで相手が傷ついていることが見えない。
相手や周囲への配慮を欠いた人が増えているといいます。
現在のアサーションのトレーニングの場では、
自分を伝えるだけでなく、
相手の話を「聴く」こと、
相手や周囲に配慮することの大切さを
どうやって伝えるかが課題になっているといいます。
生活が便利になってきて、
人と人との親密な関わりが減ってきたこと、
通信機器の発達により、
生身の人間同士のふれあいが減っていることも
関係があるかもしれません。
自己表現を簡単にチェック
「アサーション入門」(18~20ページ)の本には、
普段の自己表現を簡単にチェックできるように
いくつかの質問が書かれていました。
たとえば、
・あなたは人にいい感じを持ったとき、その気持ちを表現できますか?
・あなたは、自分の長所やなしとげたことを、人に言うことができますか?
・あなたは、自分が神経質になったり、緊張したりしたとき、それを受け止め、
伝えることができますか?
・あなたは、初対面の人たちの会話の中に、気楽に入っていくことができますか?
・あなたは人に支援や助けを求めることができますか?
・人と違う意見や感じを持ったとき、それを表現することができますか?
・自分が間違っていると気づいたら、それを認めることができますか?
・自分のしたことを批判されたときに、きちんと受け答えできますか?
・不当な要求をされたとき、断ることができますか?
・あなたの話をさえぎって話し出した人に、対応することができますか?
・レストランで注文したものと違う料理がきたとき、そのことを言って、取り替えて
もらうことができますか?
・人の善意や好意がわずらわしいときに、それを伝えることができますか?
等々。
思わずたくさん引用してしまいましたが、
他にも質問がありました。
「はい」の答えが多ければ、
自分も相手も大切にする自己表現ができている傾向にあるようです。
ただ、「はい」の答えであっても、
ネガティブな感情が湧いた場合は、
相手を大切にしない表現をしている可能性があるといいます。
実際の場面を想像してみると、
これちょっと大変だなあとか、
できるかなあ、どうかなあと思ったり。
人のことを言うのは簡単ですが、
自分自身のことは見たくないものだなあと思ってしまいました。
自分も変えられないのに、
他人を変えられるわけがない。
時折耳にすることですが、
本当にその通りだと納得してしまいました。
日常生活における3つのたとえ話
自分の気持ち・考えを大切にするかどうか。
自分の気持ち・考えを相手に伝えるかどうか。
本の中に日常生活でのたとえ話が幾つか書かれていました。
その中から3つ、
参考までにご紹介します。
病院に行ったとき
たとえば、あなたが身体の具合を悪くして、医者に行ったとしましょう。診察の結果、「それでは、検査をしてください。結果が出るまで、この薬を飲んでおいてくださいと言われたとします。そんなとき、あなたは、どんな病気の可能性があって検査をするのか、処方された薬は、何のための薬で、どんな効用があるのか聞きたいと思いませんか。もし、そう思っても、聞くべきではないと、黙って帰ってくることはないでしょうか。最近、患者の人権については、尊厳死の問題も含めて、広く認識されるようになりましたので、医者の権威に押されたり、患者は聞く必要ないと思ったりする人は少なくなってきたと思われますが、それでも、処方された薬の内容を聞き、きちんと納得して飲んでいる人は少ないと思われます。そのような行動の背景には、専門的なことについて、素人に聞く権利はないとか、聞いても分からないだろうといった勝手なあきらめが潜んでいる可能性があります。
「アサーショントレーニング~さわやかな〈自己表現〉のために~」
(平木典子著、日本・精神技術研究所)48~49ページ
親友にお金を貸してと頼まれたとき
…親友が、とても困った状況になって、かなりのお金を貸してくれと言ってきたとします。お金は貸したくない、主義として貸さないことにしている、と日頃思っていたとしても、親友の窮状に接して、貸してしまうことはないでしょうか。断ると相手がかわいそうだといった同情や、断ることで友だち甲斐がないと思われるのではないかといった懸念で、自分の行動の決断が鈍ってしまうのです。
「アサーショントレーニング~さわやかな〈自己表現〉のために~」
(平木典子著、日本・精神技術研究所)49ページ
職場で子供の運動会のために希望していた休みを返上してほしいと頼まれたとき
「ナースのためのアサーション」、編者:平木典子・沢崎達夫・野末聖香・保坂健治、金子書房、第8刷2008」 115~116ページ
病欠者が出たので、休みを希望していた日に勤務についてほしいと師長から頼まれました。その日は、一人娘の最後の運動会に応援に行くのを楽しみにしていた日だったのですが、断り切れず引き受けてしまいました。けれども、その後で、娘のがっかりする顔が浮かんでとても憂うつな気持ちになってしまいました。
…通常、仕事の話になると業務上の責任感から仕事のほうを優先しがちになります。けれども、周囲が何と思うと個人の権利として個人の都合を主張する権利、アサーション権を誰もがもっているのです。アサーション権を確信して、自分がその日に休みを希望した理由、一人娘の小学校での最後の運動会なので自分としてはぜひ見に行きたいと思っていたことなど、自分の気持ちを表現してみることです。…
ただし、何が何でも自分の主張を押し通すことがアサーティブというわけでは決してありません。したがって、師長の考えにも耳を傾けて、話し合いをしていくことが必要です。…
自分は何を言っていいのか、何をしていいのかを知る~自分に認められた人権を知る
自分の気持ち、考えを大切にしながら行動できないとき、
言い方以前の問題が潜んでいる可能性があるといいます。
自分の気持ち・考えを相手に伝えるかどうか。
自分の気持ち・考えに沿って行動するかどうか。
自分の判断に自信が持てない、
あるいは「言ってはいけない」「そのように行動してはいけない」という
自分の思い込みで、
自分の気持ち・考えを大切にできないことがあるといいます。
アサーション・トレーニングでは、
自分の判断に自信を持つために、
①平等とはどのようなことか
②人権とは何か
③人権を行使するとはどのようなことか
など、
社会的に認められる言動を
具体的に、明確に知ることも大切にしています。
上意下達の意思決定~「男性らしさ」が制約する男性の自己表現
とても気になったエピソード~男性グループのロールプレイングで
以下のエピソードは、
「アサーショントレーニング~さわやかな〈自己表現〉のために~」に書かれており、
別の本「アサーション・トレーニング」でも引き合いに出されていました。
後者の本では、
「男性がアサーションを学ぶことの意味」という項で触れられています。
この項では男らしさの既成概念が、
男性の自己表現にどのように影響をあたえているかについて書かれており、
大変興味深いものでした。
行政、企業、他、
様々な組織の意思決定の現場に
共通するものがあるのではないかと感じます。
この記事を書くきっかけになったエピソードです。
数年前に行った、管理者一日研修では、男性ばかりの集団に問題解決の課題ロール・プレイを取り入れました。葛藤が生じるようにつくられたロール・プレイなので、通常は1時間では足りないくらいなのに、何とどのグループも10分から15分で解決策をグループ決定してしまったのです。彼らはその決定に不満のある人を気にせず、上意下達の決定をほとんどそのまま受け入れてしまったのですが、そうした決定に至ったプロセスの振り返りがほとんどできないで終わってしまいました。どんな働きかけで、気持ちが変化したり、納得していったかなど、そのプロセスが大切だということを十分伝えることができませんでした。男性は自分の気持ちに気づいたり、気持ちを表現することを苦手とする人が多いのだと分かりました。男性にもアサーション〈自己表現〉トレーニングが必要だと気づいた研修でした。
「アサーショントレーニング~さわやかな〈自己表現〉のために~」(177~178ページ)
依然として男性優位の社会であると感じますが、
一人ひとりを見てみれば、
一見優位な立場にいるように見えながら、
主体的に自己を表現できる人は
多くはないのかもしれません。
このエピソードを読んで、
アサーションという表現方法は、
「自分の人生を主体的に生きる」、
1つの方法なのだと強く思いました。
アサーションの歴史
ここで、アサーションの歴史をご紹介しておきます。
アサーションが、
人権尊重とむすびついていったこと、
権威を行使する側の人々にも知ってもらうことの必要性が
認識されていったことは大変興味深いです。
社会に存在するさまざまな問題の解決には、
外部の要因だけではなく、
一人ひとりの心の中やコミュニケーションの在り方についても
変革が必要なのだと感じました。
アサーションの歴史
1950年代半ばに北米で誕生。
人間関係が苦手な人、引っ込み思案でコミュニケーションが下手な人を対象とした
カウンセリングの方法・訓練法として開発された。
以下の2つの運動がきっかけとなってアサーションが発展。
1.1960年代のアメリカ公民権運動にはじまった人種差別撤廃の運動
2.1975年の国際婦人年をきっかけに世界的に広がった、
女性の地位向上と機会均等の確保に向けた女性差別の撤廃運動
アサーションが発展する中で、
問題はコミュニケーションに悩む人、差別される側の人だけでなく、
その人たちを取り巻く、
自己表現を意識的・無意識的に押し潰す人々にもあることが認識されるようになった。
人権を無視したさまざまな人間関係の問題への意識化がうながされた。
人権侵害は人種や性だけにとどまらず、職場、親子などにも存在してきた。
役割・地位・年齢に上下のある権力関係、
知識・情報・経験の格差のある場なのでは、
自己表現ができない人と、自己主張が強すぎる人との不公平なかかわりの連鎖の中で、
無意識の差別や理不尽な人権侵害が継続している。
権力関係や、
知識・情報などの不平等という形の力関係が存在するとき、
弱い立場の人がアサーティブに自己表現できても、
依然として強者、権威者に有利にものごとが決まる。
(太字:ブログ管理者)
人権侵害は、
表現法を獲得しただけでは解決できないことが明らかとなり、
力や権威を行使する側の人々にも、
「自分と他者を大切にするコミュニケーション」である
アサーションを知ってもらう必要があると認識されるようになった。
(太字:ブログ管理人)
アサーショントレーニングでは、
人権を知ること、
人権を大切にすることが基礎に置かれるようになっていった。
その後アメリカでは、
アサーションの考え方と方法は、
人種・性差別を受けてきた人々、特別な配慮などが必要な人々の人権を保護するため、
また人権を軽視するなどして人の尊厳を脅かす人々への警鐘として、
教育・福祉・産業分野などへ広がっていった。
子供、教師、看護師、カウンセラーなどに向けたトレーニングも開発されていった。
自他尊重のコミュニケーション~建設的な話し合いが選択肢を広げる
これまでの意思決定のあり方
これまでの意思決定のあり方として典型的に思われたニュースなどを、
以下にご紹介したいと思います。
あくまで個人的な見解にすぎませんが、
自分と相手が対等であるとの認識を持ち、
お互いを尊重しながら話し合いを行うのではなく、
「自分の意見をのませるか(時に恫喝するか)、
相手の意見の言いなりになるか」、
「空気を読んだり、忖度したりして、
何となく既定路線になる、
声の大きい人の意見に決まる」、
という場面が多かったのではないか。
そのように思っています。
国会審査を軽んじる「事前審査」の存在
「議員怒気、官僚震え…国会軽視の裏にある自民「密室」会議の実態」
毎日新聞:2021/10/9(記事)
こちらのニュースは有料記事で、
すべてを閲覧できてはいないのですが、
このテーマと非常に深いかかわりがあると思いましたので
ご紹介させていただきます。
自民党では、政府が作成する法案や予算案などを、
事前に党内で実質的に審査する「事前審査」が
半世紀以上つづいているといいます。
事前審査は非公開。
この場で議員と省庁幹部の実質的な審議がなされるために、
国会の審議が儀式化しているといわれるそうです。
日本は「民主国家」といわれながら、
実際には本当の民主主義を実現できたことは
なかったのかもしれません。
さまざまな現場の声、
多様な考え方が取り入れられないために、
発展していくことができない。
時代の変化に対応していくことができない。
密室での「事前審査」のような「話し合いを回避する仕組み」が
できあがっていることは問題だと思いますが、
一方で外部的な制度の仕組みの問題であれば、
これを取り除くことで大きく事態が改善する見込みもありそうです。
オリンピック東京開催
元駐スイス大使村田光氏ブログから
元駐スイス大使の村田光平氏のブログ(2021年1月27日)で
以下のコメントを見ました。
…最近の発信に対しては傑出した専門家の方々からコメントが寄せられておりますので紹介させていただきます。
「多方面への発信メッセージ 2021年 1月17日」から (元駐スイス大使村田光平氏ブログ⇒)
(その1)
日本的意思決定のあり方が正に問われています。
関係者の殆どが東京五輪は「もはや実施できない」と思っているにも関わらず誰も言い出しません。言い出せません。あの戦争ですら原爆2発落と されてようやく決めたくらいですから。
IOCの誰かが言い出してくれるのをじっと待っているのではないですか。
元オリンピック委員会理事・山口香氏のコメントから
一方、時事ドットコムの記事に、
元オリンピック委員会理事・山口香氏のコメントがありました。
「私も含めていろんな意見を持っている人がいるけど、その意見をぶつけるところがなかった。言っても誰にも取り合ってもらえない。「大丈夫だから」「安心、安全にやるから」と言われるだけ。そういうもんなんだなというのを植え付けられた感じですよね。無駄なエネルギーだったなって。(笑)」
「東京五輪、「第三者がきちんと検証を」~柔道の元世界女王、山口香さんに聞く」
時事ドットコム(2021年9月29日掲載)(記事)
「話し合い」の文化
2つのコメントを読んで思いました。
それぞれが自分の本当の考え・意見を言い、
検討し、良い案を練り上げる、
「話し合う」という文化が日本にはあったのだろうかと。
集落や村、小さな単位ではあったかもしれない。
でも、国という単位ではなかったのではないでしょうか。
今盛んに明治時代に政治・経済で功績のあった方々が
取り上げられているようですが、
その時代の個人の功績のみならず、
構成員それぞれを活かす「話し合い」ができていたのか
ということについても、光を当て検証する必要があると思います。
この点については、
この記事の最後に、戦前・戦後を通して国語教師であった
大村はま氏の言葉もぜひご覧いただければと思います。
アサーションを実践するには
アサーションの基本となる2つのステップ
【その1】自分の意見や気持ちを確かめること。
言われてみれば当たり前のことなのですが、
自分の日常を考えてみると
できていないことも多いような気がします。
他者に気をとられていたり、
他者を優先させたりしていると、
このことがおろそかになるといいます。
自分の気持ちを確かめるときのアドバイスとして、
以下のことが書かれていました。
●自分の意見やきもちを把握するのに集中する時間をとる
●あいまいだったり、ネガティブな感情や迷いがあったりすることを否定せず、
素直に気づく
【その2】正直に言語化してみる
自分の気持ちを把握したら、
自分の言葉で、正直に率直に表現する。
はっきりとした気持ちや意見がなくても、
迷っていたり、困っていたり、うまく言えないなど、
それはそれで伝えることだと書かれています。
そして自分の気持ちを表現したら、
あとは「相手の表現を大切にする」こと。
相手に心を向けて、
自分の思いがどのように受け止められたかを見届けることで、
はじめて「自分と相手を大切にする」やり取りになるといいます。
人間として誰もがやってよいことを知る~自分も気持ちも他人の気持ちも大切にするために
自分の本当の気持ちや意見を伝えようと思っても、
「言い方がわからない」
「言ってもいいかわからない」
「きっと理解されない」
と思ったり、
一生懸命話してくれた相手を自分が理解できなかったというような体験などが、
自分を伝えることのブレーキになることがあるといいます。
自分にブレーキをかけず、
自分も他者も大切にするコミュニケーションができるようにするために、
「人間として誰もがやってよいこと」の理解と確信が大切だといいます。
この 「人間として誰もがやってよいこと」 、
「アサーション入門」(57~67ページ)から
ご紹介します。
1.私たちは、誰もが自分らしくあってよい
2.人は誰でも自分の気持ちや考えを表現してよい
3.人間は過ちや間違いをし、それに責任※をとってよい
(※とれる範囲でとれば良いとの意味)
また、このようにも書かれていました。
「…同じ出来事に悲しむ人と腹を立てる人、ある意見に対して賛成する人と反対する人など、私たちは日常的に、違いや葛藤を経験します。しかし、ただ違っているだけなのに、自分を卑下したり、逆に相手を劣っていると思ったりするとすれば、その思いはアサーションに影響するでしょう。
私たちは誰もが自分らしくありたいし、同時に他者と共にいきていく必要があるので、違いを知り、そこから起こる葛藤を解決するために、アサーションが必要なのです。
言い換えれば、人はアサーティブに自己表現することで個性の違いを理解し合い、互いを受け止め、大切にする努力や歩み寄りができるのです。
その意味で自主的であることと共同的であることは、矛盾することではありません。個性の違いは、葛藤や歩み寄りの必要性を教え、両立の知恵を生み出す源なのです。」
日頃の考え方を確かめる
日頃の何気ないものの見方や考え方は、
幼いころからの経験や、
それに基づく価値観・信念、
いわば社会や集団の見えないルールが基礎になることが多いといいます。
そして、その日頃の考え方によっては、
「自分も相手も大切にするコミュニケーション」(アサーション)を
邪魔する可能性があるといいます。
そのアサーションを邪魔する可能性がある考え方について、
「アサーション入門」(77~103ページ)から
ご紹介します。
【その1】
「危険や恐怖に出会うと、心配になり何もできなくなる」
⇒危険や恐怖が引き起こした心配に心がとらわれて、
自己表現や行動が自由にできなくなる。
【その2】
「過ちや失敗をしたら、責められるのは当然だ」
【その3】
「物事が思い通りにならないとき、苛立つのは当然だ」
【その4】
「誰からも好かれ、愛されなければならない」
【その5】
「人を傷つけてはいけない」
「アサーション入門」にはこのような考え方に囚われそうになった時、
どのように対処すればよいかのアドバイスも書かれています。
また、自分を縛る可能性のあるその他の考え方についても
紹介されています。
問題を解決するために自分を伝える
アサーションの本の中では、
実際にどのように自分の気持ちを伝えるのかについて書かれています。
以下は、自分の気持ちを伝える流れです。
1.自分の思いを確かめる
2.客観的な事実や状況を共有する
3.自分の主観的な気持ちを伝えたり、説明したり、相手に共感したりする
4.具体的な提案をする
5.結果を想像・予測して、その次の自分の対応策を考えておく
ここでは流れをご紹介するにとどめますが、
各本の中では、伝える時に
どのようなことに心配りをすればよいかなどについても書かれています。
アサーションは「他人を変える」道具ではない~主体的に生きるためのコミュニケーション方法
アサーショントレーニングでよくある質問~アサーションは魔法ではない
アサーションのトレーニングでは、
「自分だけアサーションを知っていてもうまくコミュニケーションがとれないのでは」、
「相手に同意してもらうにはどう言えばよいか」
というような質問がよくあるそうです。
私が読んだどのアサーションの本でも書かれていたこと。
それは、アサーションは、
それをすれば何の葛藤もなくコミュニケーションがうまくいくものではない、
他者を変えるための道具でもない、
ということでした。
アサーションは魔法ではない。
スピードの速い世の中、
すぐに成果が出るものを求めがちになってしまいますが、
人間同士のコミュニケーション、
よく考えてみれば当然のことなのでしょう。
アサーションは葛藤を覚悟して引き受けるコミュニケーション
人は皆違うので、
それぞれに意見や考えも異なり、
アサーションを知っていようといまいと、
自分の意見や考えに同意するかどうかは限らない。
率直に意見や考えを伝える分、
相手に理解してもらいやすくはなる。
また相手を尊重しながら自己表現するため、
相手を攻撃したり、相手に押しつけたりしない分、
相手からの抵抗も少なくなることが多い。
でも率直に伝え合う分、
葛藤は生まれるものであり、
葛藤が生じることを覚悟して、
葛藤を引き受けて話し合う方法である。
このような意味のことが書かれていました。
人は皆違うから、波風立つのは当たり前
思えば人はみな違い、
共にこの世に暮らしているだけで葛藤は生まれるもの。
日常生活のさまざまなことが、
ほとんど人と接することなく
済ませられるようになってきました。
波風立つのは当たり前。
便利さの中でそのことを
忘れてしまいがちなのかもしれません。
自分と相手に真摯に向き合い、大切にするコミュニケーション。
葛藤があっても、
それは前向きなものだと思います。
葛藤はあるのが当たり前と思えるようになったら、
もっと気軽にコミュニケーションがとれて、
いろいろな問題の解決もすすむかもしれません。
今アサーションを知る意味
アサーションは万能ではないけれど
「アサーションの歴史」で触れたように、
アサーションはコミュニケーションが苦手な人のために開発され、
差別の問題を通して発展してきました。
重い心の問題を持った人のために開発されたものではなく、
グループサイコセラピーでもなく、
一般市民のために発展してきました。
ですからアサーションは重い心理的問題を抱えた人や、
危機的状況にある人を救えるものではなく、
万能薬ではないといいます。
( 以上参照:「アサーション・トレーニングー自分も相手も大切にする自己表現ー」、編者:平木典子、至文堂2008 、162~163ページ)
また、アサーションは人間同士のコミュニケーションを支援するものであり、
アサーション=社会変革でもありません。
今のような社会状況下、
非常に困難な事態に見舞われ、
自己表現すること自体が無理を強いることになる方々もいらっしゃると思います。
その意味でも、
アサーションは万能ではないだろうと思います。
その上で、
以下に「アサーション・トレーニング」の本から、
2つの話をご紹介したいと思います。
1つは座談会の記録の中から、
もう1つは森川早苗氏の寄稿「女性がアサーションを学ぶ意味」からです。
ここでの引用は、
アサーショントレーニングの受講を推奨する意味ではありません。
(私自身、アサーション・トレーニングの講座を受講したことはありません。)
「自他尊重のコミュニケーションが持つ可能性」や
人の変化の仕方は必ずしも一様ではないということ、
コミュニケーションを通して主体的に生きれるようになる可能性、
こうした事について触れておきたいと思いました。
小さな変化のように見えても、
さまざまな場所で1人また1人と変化が起きたとき、
何かが変わっていくのではないか。
この2つを読んで、そんな気持ちになりました。
2つの話~ 「アサーション・トレーニング」 から
「座談会 アサーション・トレーニングーその展開と可能性」、
中釜洋子氏の発言から(同書20ページ)以下:
アサーションを伝えてきた経験の中でも、シンプルさということがかなり大切なアサーションの特徴なんですね。アサーションを一番初めに学んだときの衝撃が強かったんですが、それ以前は、人が変化するためには、長い時間をかけて悶々と考えることが必要だし欠かせないと思っていたんですね。
「アサーション・トレーニング」20ページ
ところが、自分がアサーション・トレーニングの受講生だったときか、トレーナー・トレーニングを受けていたときだったか忘れましたけれど、アサーション・トレーニングが提供する枠組みの中で、表現できているところを周りからいくつも指摘されて、肯定的なフィードバックをもらった人が、私の目の前でほんの短時間にグイグイ変わっていく姿を目の当たりにしたんです。その時の衝撃は忘れられませんね。うまくできないところは気にせず放っておいて、少しでもアサーションできたところ、自分を出せたところを伸ばしていくという、すごくシンプルなやり方で変わってゆく人がいる。1人でごちゃごちゃ考えるより、よほど変化が早い場合があるし、無駄な考えはいくら積まれても仕方ないみたいな。それは今でも大きな経験として残っています。
森川早苗氏、「女性がアサーションを学ぶ意味」から 以下:
主体的に生きることができる
(同書122ページ)
私は、20代30代は、フェミニズムの運動を積極的に担っていたので、被差別的状況にいる女性にとって社会のシステムや周りの人たちの考え方が変わらない限り、幸せになれるはずがないと考えていた。そんな時代はいつくるか分からないので、ドン・キホーテになったような無力感を感じていた。しかし、この状況に対する反応は自分で選べるのだと分かって気分が晴れ晴れとした。自分が選べる余地がたくさんあるのだと分かり、私がこの人生をどう生きるか主体的に決めることができるのだと、気づいた。
7まとめ
…世の中が、いかに性差別的で生きにくい社会であっても、その状況にどう関わり、どう反応するかは自分が選べるのだと知ることは、人生を自分の手に取り戻すことだと言えるだろう。
最後に~ 「話し合いこそ戦後民主主義の基盤」大村はま氏の言葉
「教師 大村はま96歳の仕事」小学館1993 から、
戦前・戦後を通じて国語教師として教えつづけた
大村はま氏の言葉を見つけました。
話し合いができないこと。
これは今に始まったことではなく、
長い間、日本の宿題になっていることなのだと知りました。
心に飛び込んできた大村はま氏の言葉、
以下に引用させていただきます。
私は戦前戦後を通じて教師でした。そして話し合いのできない自分自身を、これほど困ったことはありません。いろいろと手を尽くしてもできないこと、不備なことはありましたけれども、話し合いくらい、戦後の国語教育で教師として骨の折れたことはありません。その頃の流行り言葉は「民主国家の建設」。これはだれでも毎日言っているような言葉でした。その建設に欠けているものは、話し合いの力ではなかったでしょうか。おしゃべりはできるかもしれませんけれども、しっかりとした建設的・創造的な話し合いはできない。そういう人達が集まって、「民主国家の建設」もないもんじゃないでしょうか。
「教師 大村はま96歳の仕事」小学館1993(19ページ)
話し合いこそ戦後民主主義の基盤
同書163~164ページ
話し合い。これは本当に大事なことです。日本は戦争に負けて、その直後の私達教師は茫然自失でした。本当に「茫然自失」という言葉の意味が、あのときほどよくわかったことはありません。何をどうしたらいいのか皆目わかりません。
…そのとき、大変はやった言葉が「民主国家」でした。それです。その建設を何とか一生懸命にやってみようと思って、私は第ハ高女から、胸いっぱい悲願の思いを抱いて新制中学に出ました。
私は何のために出てきたのでしょうか。どうしてもその「民主国家」の建設に役立つことをしたい、そう思っていました。
国語科でそれを考えてみたとき、何よりも大事なことは話し合いだったと思います。本を読むこと、書くこともみんな大事ですけれども、これまでの日本の教育に一番欠けていたのは、そういうことの基盤を成す、人と人とが心を語り合うということで、その気持ちも技術も持っていないのだと思いました。
一人でする話はそれまでもありましたから、「話し言葉」の教育が戦前にまるでなかったわけではありません。けれども「話し合う」ということがありませんでした。
…しかしいろいろな講習会があり、アメリカの方々からも講習があったので、行って聞いていました。そして、どきどきしました。「そうだ、本当に話し合える人がいなきゃだめなんだ」。「衆議一決」なんて言っても、一人ひとりがちゃんと自分の心をとらえて、人の心に訴えるだけの、この頃の言葉で言うと相手の心に届くような、そんな話ができなければだめなんだと、気づきました。
…そこでは、いろいろな実習をいたしました。…話し合いということがいったいどういうことなのか、好きなことを好きなように楽しく話せばいいというものではないということが、よくわかりました。私はそこで、話し合いが日本再建のための一番大事なことではないか、民主主義の基盤を成すものではないかと考え、国語教師として、やや奮い立つ気持ちがいたしました。
一人ひとりが自分の心をとらえて、
自分の言葉で、自分の心を相手の心にとどけること。
人と人とが心を語り合うこと。
扉を開く鍵は、
どこか遠いところではなく、
一人ひとりの心の中にあるのでしょう。
お読みくださりありがとうございました。
参考文献
1.「アサーショントレーニング~さわやかな〈自己表現〉のために~ 」、平木典子著、日本・精神技術研究所、第18刷2007
2.「アサーション入門」、平木典子著、講談社現代新書2012
3.「ナースのためのアサーション」、編者:平木典子・沢崎達夫・野末聖香・保坂健治、金子書房、第8刷2008」
4.「アサーション・トレーニングー自分も相手も大切にする自己表現ー」、編者:平木典子、至文堂2008
5.「教師 大村はま96歳の仕事」、小学館1993